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透明マントを求めて [物理]


透明マントを求めて 天狗の隠れ蓑からメタマテリアルまで (DISCOVER SCIENCE)

透明マントを求めて 天狗の隠れ蓑からメタマテリアルまで (DISCOVER SCIENCE)




 「もしも透明になることができたら?」というのは、古来からの人間の夢であった。

 ギリシア神話に出てくるハデスの兜、中世ドイツの「ニーベルンゲンの歌」、日本の昔話に出てくる天狗の隠れ蓑、H・G・ウエルズの小説「透明人間」など、主人公が透明になるという物語はたくさん描かれてきた。

 物語の中だけではない。どうにかして実際に透明マントを作ることができないか? 人間を見えなくすることはできないか? と、これまで様々な探求がなされてきた。

 まず最初にマジシャンたちが舞台上で人間消失マジックを演じるために、あの手この手を考え出した。それから、冷戦の米ソ対立がきっかけとなって、戦闘機を消してしまう「ステルス」の技術が生み出された。現在でもなお、軍事などを目的に、科学者たちは人間の姿を隠す透明化の技術に取り組んでいる。

 本書は、そんな透明マントを求める人々のあくなき情熱を描くとともに、その背後にある科学的なしくみを解説した本である。

 ものを見るということは、可視光線が物体にぶつかって、その反射した光が目の神経細胞に当たって電気が発生するということ。では、物体から光が反射しないようにすることはできないか? 物体の後ろにある背景から反射した光が物体を迂回して目に飛び込んでくるようにはできないか? 

 そんなふうにどうにかして人間の目を錯覚させられないかと、マジシャンや科学者たちが悪戦苦闘するところが面白い。

 そして、こうした奮闘ぶりを見ていくうちに、いつの間にかものを見るということはどういうことなのか、光というのはどういう性質があるのかということまで見えてきてしまう。

 科学者たちの生きざまなどを描きつつ、その間に科学的な解説も織り交ぜるというのは、外国のポピュラーサイエンスなどを読んでいると定番の手法だけれども、本書もこれに倣って書かれている。個々の人物たちの生きざまも面白いし、科学解説も非常に分かりやすくてためになる。ポピュラーサイエンスの手本のような本になっていて、とても面白い本だった。
タグ:雨宮智宏

愛は戦渦を駆け抜けて [写真]


愛は戦渦を駆け抜けて 報道カメラマンとして、女として、母として

愛は戦渦を駆け抜けて 報道カメラマンとして、女として、母として




 「撮った写真が満足いかないのは、被写体に十分に近づいていないからだ」とは写真家ロバート・キャパの言葉。

 真に迫った写真を撮るためには、被写体に近づく必要がある。遠くから眺めているだけでは、見えてこない世界がある。被写体に近づくことで、その人物の喜びや悲しみ、その街の様子が初めて見えてくる。

 このことは報道カメラマンの場合によく当てはまるだろう。起こっている事件や災害も、現場に近づかなければ真実は分からない。

 本書を書いたリンジー・アダリオは報道写真家だ。彼女はまさに、このキャパの言葉を忠実になぞっている人だといえる。「ニューヨーク・タイムズ」や「タイム」、「ナショナルジオグラフィック」などから依頼を受け、世界中のどんな場所にでも駆けつけ、現場の中心にまで入り込んではそこで起きている出来事を伝え続けているのだ。

 彼女の問題は、逆にあまりにも被写体に近づきすぎてしまうというところにあるだろう。治安のいい場所ならいくら近づいてもいいかもしれないが、彼女の向かう先はほとんどが戦場。アフガニスタン、イラク、スーダン、リビアといった戦渦の中だ。被写体に近づくために、砲弾や銃弾の中をかいくぐる日々を送っている。

 すぐ近くで爆発が起きたり、目の前で人が死んでいくのを見たり、武装集団に拉致されたりもする。死と隣り合わせの危険な仕事だ。

 どうしてそんなにまでして写真を撮ろうとするのだろう? 自分の命を懸けてまで撮る価値のある写真などあるのだろうか?

 彼女も別に死ぬことが怖くないというわけではない。危険な目に合うのは避けたいに決まっている。しかし、どんなに危険な目に合うとわかっていても、戦渦の中に飛び込んでいって、そこで起こっている出来事を伝えたいという思いがあるのだという。

 たった一枚の写真が、世界の真実を伝える役目を果たすかもしれない。世界をより良い方向に変えるかもしれない。そういうものすごい力が写真にはあるという信念を持っているのだ。

 この本は計り知れない信念を貫いた女性の手記である。苦難と葛藤しながらも危険な世界に飛び込んでいく姿に、心底感服させられた。こういう人たちがいなければ、世界は闇に包まれたままだ。

ピカソになりきった男 [犯罪]


ピカソになりきった男

ピカソになりきった男




 娼館で生まれ、暴力的な父親から逃れるように家を出て、路上生活を始めた少年ギィ。

 彼にはひとつの才能があった。デッサンや絵を描く才能が。絹織物の図柄を創作する工房に入ることになったギィは、そこで絵の才能をめきめきと伸ばしていく。

 水彩画を路上で販売したり、個展を開いたりして、ギィは自身の創作活動も続けていく。しかし、同時に何か物足りなさも感じ始める。彼の描く絵はそこそこ売れるものの、市場での評価は伸び悩んでいたのだ。

 自分には何が足りないんだろう? ひょっとしたら、偉大な巨匠たちの作風をまねてみたら何かが掴めるかもしれない。そんな考えから巨匠たちの作品を模倣し始めてみる。

 巨匠のあらゆる作品を研究し、巨匠の思いをくみ取り、しまいには巨匠の作品そっくりに絵を描けるようにまで成長する。

 しかし、彼のその才能に目を付けた画商たちが、彼をアートの裏世界に彼を引きずり込んでいく。贋作という犯罪世界に。ギィはいつの間にか、贋作のエキスパートとなり、ピカソ、シャガール、ダリ、マティスといった画家たちの贋作を次々に描いては、本物として市場に流して大金を稼ぎ始めるようになってしまう……。

 贋作絵画を大量に描いた画家ギィ・リブによる自伝。贋作の世界というのはこんななのかという裏話がたくさん書かれていて興味深い。贋作画家だけでなく、画商やら鑑定士やらも贋作の流通に一役買っていることが見えてきて、アート界の裏事情を知ることができる。

 どんな創作も模倣から始まるというけれど、模倣を極めてしまったらどうなるんだろうという創作的な観点から見ても面白い。贋作というのも自分を押し殺してしまうようなイメージがあったが、実際にはそうでもないらしい。自分自身の感動をプラスアルファとして入れていかないと、作品に魂がこもらないのだとか。贋作が本物として認められることにも独特の喜びがあるらしいというのも知らなかった。

 犯罪は犯罪だが、ここまでのレベルになると職人芸という気もしてくる。ギィは最後には捕まってしまうけれども、最後の最後に思わぬ大逆転がある。芸は身を助けるというのはまさにこのことかと思った。
タグ:ギィ・リブ

ハムレット [演劇]





 名作「ハムレット」にもいろいろとバージョンがあるらしい。今回読んだのは、Q1版というもの。一番最初に世に出た台本で、短くすっきりとして、非常に読みやすい。

 物語は復讐劇の元祖ともいえる内容だ。

 デンマーク王が死去して、王妃は王の弟であるクローディアスと再婚する。王の死に嘆き悲しむ王子ハムレットは、あるとき、王の亡霊と会う。亡霊はハムレットに告げる。王がクローディアスの陰謀で毒殺され、王位と王妃を奪われたことを。ハムレットは復讐を誓い、クローディアスを追い詰める計画を立てる。

 ストーリーシンプルな復讐ものながらも、出てくる登場人物たちが魅力的なところがよかった。

 クローディアスはハムレットの怒りを知るや、逆にハムレットを亡き者にしようとたくらむ。ハムレットを慕うオフィーリアはハムレットの変貌ぶりを見て嘆き悲しむ。オフィーリアの兄であるレアティーズはハムレットに人生を狂わされ、復讐に燃える。ホレイショは、ハムレットに忠実な親友。

 ハムレットの行動によって、ハムレットのみならず、周りの人物たちの人生までおかしな方向に進んでいくところが見ものだった。

 結局のところ主人公の目的は達成され、復讐が成し遂げられたというカタルシスはあるのに、主人公を含めて誰も幸せにならない。みんな不幸なまま終わるというのが、何とも悲劇的だ。

 名作といわれるだけあって、あちこちにきら星のようなセリフがちりばめられている。何度も読み返したくなるような力強い作品だった。

風をつかまえた少年 [科学]





 2001年、アフリカのマラウィという国を飢饉が襲った。洪水と日照りの影響で、食料の収穫高が例年よりも激減する。

 トウモロコシ農家であった14歳のウィリアム少年の一家も例外ではない。お金もなく食料も手に入らず、苦しい毎日を強いられることになる。備蓄していた食料も尽き、食事の量をだんだんと減らさざるを得ず、1日1食しか食べられなくなっていく。もちろん、学費も払えず、学校などに通う余裕はない。

 国の支援はなかったのかというと、大統領は具体的な政策を行わず、現状維持に徹するばかり。国際的な支援も期待できなかった。

 大勢の人々が飢えに苦しみ、何人もの餓死者が生まれる。男たちは家族を捨て、どこへともなく去ってゆく。地獄のような状況が広がった。

 次の収穫の時期まで骨と皮のような状態でなんとか生き延びたウィリアム少年は、図書館で一冊の本に出会う。「物理学入門」という本で、この中には電気の生み出されるしくみと利用方法などが書かれていた。

 マラウィで電気を使っているのは人口のたった2パーセントにすぎなかった。もし電気を自分で作り出すことができれば、社会はもっと豊かになるかもしれない。揚水ポンプを井戸につなげることができれば、飲料水や灌漑用水に利用できる。年に2回の収穫が可能となり、飢餓の苦しみから逃れることができる。

 そんな切実な思いから、ウィリアム少年はエネルギー作りに挑むことになる。独自に風力発電機を作り、電気を生み出そうという計画だ。

 発電の仕組みは本に書かれていた。基本は自転車のダイナモと同じ。コイルの回転運動によって磁場に影響を与え、パルスを生み出す電磁誘導というやり方だ。風車の回転運動を生み出すことができれば、電気を得ることができる。

 ただ、問題はどうやって風車を作るのかということ。なにしろ貧しい国で、材料も道具もなにもそろっていないのだ。ウィリアム少年はどうやって風力発電機を作ろうかと悪戦苦闘する。

 とても難しそうな問題をどうやって解決していくのか? 次々に現れる壁を乗り越えていく様子が爽快。本で学んだ知識と、周りにあるものをなんでも使ってやろうというチャレンジ精神で、難行を成し遂げていくところが非常に面白い。

 また、ただ電気を生み出すだけで満足しない。今度は電圧を変えてみようとか、ブレーカーを作ってみようとか、ラジオ局を作ってみようとか、いろいろなことに挑戦していく意欲がすごいのである。

 本当に何もないところから、社会を変えていったわずか14歳の少年の成功談。学問の重要性、なんでも挑戦することの大切さを教えてくれる本だった。

リチャード三世 [演劇]


リチャード三世 (新潮文庫)

リチャード三世 (新潮文庫)




 昔、イギリスで薔薇戦争と呼ばれる戦争があった。

 時代は1455年ごろ、英仏百年戦争が終わった直後の時期だ。

 戦っていたのは、ヨーク家のリチャードランカスター家のヘンリー6世という人たち。王位継承権をめぐる争いだった。

 なんで薔薇戦争と呼ばれるかというと、ヨーク家の紋章が白薔薇で、ランカスター家の紋章が赤薔薇だったからだそうだ。

 戦いがいくども繰り返されたのち、リチャードの子であるエドワード四世が王位に就くが、せっかくヨーク家が権力を握ったと思ったら、今度はヨーク家内部で内紛が起こってしまう。王位継承をめぐっての争いがまたもや勃発することになるのだ。

 シェイクスピアの「リチャード三世」はちょうどこのころの時代を描いた作品である。

 エドワード四世亡きあと、権力の座に上り詰めるために、あらゆる悪徳を重ねたというリチャード三世。

 権力を得るためには、身内も平気で殺害するし、幼い王子にまで手をかけようとする。嘘八百を並べ立て、仲間だろうが平気で裏切る。目的に向かってなりふり構わず行動する悪漢。そんな恐ろしい人物として描かれていた。

 リチャード三世に限らず、報奨目当てにリチャードに加担するバッキンガム公とか、リチャードに夫を殺されたのに権力に目がくらんでリチャードの妃になるアンだとか、そこまでして権力がほしかったのかと読んでいてあきれてしまうくらい権力欲にまみれている。

 どうせ権力の座についても、今度は自分が狙われる立場になるだけなのになあと、登場人物たちの価値観にはあまり共感できなかったのだが、よく考えたら権力のために殺戮を繰り返すような話はリチャード三世に限った話ではない。ヨーロッパ諸国でも中国でも昔の日本でも、歴史的に見たらどこにでもあった話なのである。

 リチャード三世のような残虐性というのは、残念ながら人間の持つ普遍的な性質なのだろう。

 そして、こうした特質というのは昔の人だけに限った話ではない。われわれもまたこうした人々の子孫なのであるから、こうした呪いのような性質を受け継いでいるはずである。たかだか数百年で人間が清廉潔癖に進化したとも思えない。誰の中にもリチャード三世が隠れていて、解放される時をじっと待っているのかもしれない。

 そういう意味では、この作品は、人間の持つ残虐さや権力に目がくらむ愚かさという普遍性を描いた、現代にも通じる作品なのではないかと思うのだ。